兵庫の宍粟にすむイノシシ先生 橋本 忠和
みなさんの美術科・図画工作科への大切さを訴えられる文面を読んでいて、感動して、しばらく動けませんでした。 この教科の意義は、みなさんの言われるとおり多面的だと思います。どれも重要だとおもいます。教育審議会の件は、大学の美術学会の総会で聞きましたが、そのとき、周囲の先生からは、コミュニケーションツールとしての美術、文化伝承媒体ととしての美術の重要性を語られる声が聞こえてきました。 そのとき、思い起こしていたのは、わたしがまだ新任の頃18年ほど前の頃、神戸の先生が、子どもの絵を前に語っておられた研究会の光景でした。だいぶ前でのことで、思い違いをしているかもしれませんがその内容は以下のようなものでした。その先生は、港を描いて絵を前に、子どもがその絵を描いた様子を語られていました。 確か、もう一枚の絵を出されて、その絵と比べられました。初めの絵より、後の絵がずっと上手だったように思います。しかし、上手な方の絵が前年で、下手と思った絵が今年だったのです。 実は、その子は、筋肉が衰えていく難病でした。周囲が、その子の病魔と闘う姿をみつめ、励ます中で、全身全霊をこめて、その子が一枚の絵を描く様子を、熱く語られていました。 先生は、自らの生を込めて描かれた一枚の絵に、その子の生き様と周囲の子どもの思いや願いを深く読み取られていました。わたしも、目頭が熱くなったのを覚えています。 子どもたちは、造形活動やそこから生まれた作品を通して、自らが抱く、喜び、とまどい、葛藤、願いを語ってくれます。そんな絵や工作が掲示してある教室に入ると、とって幸せな気分になります。 私は、いろいろな機会に恵まれて、図工以外の教科の研修や研究発表を推進する役割をしてきましたが、この教科ほど=造形活動ほど子どもの心をダイレクトに受け取れる場はなかったと思います。 ある子どもは、家庭での親との関係へのとまどいを絵に表現していました。その親が病気で入院したとき、一度もその子は見舞いにいきませんでした。そのことを知り、その子が描いた一枚の絵をもとに、語り合ったことがあります。多くを語ってくれました。作品は教師と子どもを結ぶ橋渡しになるのです。数週間後、病院にいった子どもは、病気に向かい戦う親の姿とそれを支える看護士の方の姿を見て、「将来の夢」という造形活動で石膏を使って看護士になる夢を表現してくれました。 こんな子どもの内面が受け取れ、働きかけられる教育の場を学校教育の中からなくしてしまっていいのでしょうか。特に中学の等の多感な時期に生み出される作品は、多くを語り、教師に自らを理解して欲しいというメッセージを発していると思うのですが・・・・ 反面、先輩の先生方と比べ、わたしたちは、子どもの作品や活動の様子から、その心を受け取る技量が低下しているように思います。効率的な教え方、伝え方の習得も大事ですが、子どもを読み取る力なくしては、達成率という数字を追いかけることになってしまうと思います。 保育所の先生方の実践発表を聞いていると、本当に幼児の生活中で芽生えた思いや成長を作品や活動の中から読み取り、受け取った喜びをすばらしい笑顔で訴えられています。そんな発表が私も含め、近年、小学校・中学校の先生からは少ないように思うのですが・・。 子どもの心を受け取り、それから展開してゆく造形活動、そんな実践を積み重ねてゆくことが大事であるし、アピールする必要があると思います。 私が述べることも、美術教育がもつ意義のひとつだと思います。それらの意義を多くの人に発信することが、選択や縮小の流れに歯止めをかけることだと思います。このプログもそのひとつ思いますが、兵庫教育大の福本教授が紹介されていた大阪での美術教育の世界大会は絶好の良い機会と思います。教室から、心揺さぶる実践を発信できればと考えています。
by zoukeidaiji
| 2006-01-23 20:53
| 小学校
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